対話で起きるのは、知識が増えることではなく、見え方そのものが変わること——別のところで、そうお伝えしました。
では、その「見え方が変わる」とは、いったい何が起きているのか。少し、奥まで お話しします。
知っていることと、見えていること
まず、二つを分けます。「知っていること」と、「見えていること」です。
「人を大事にしたほうがいい」と、知ることはできます。本で読み、研修で習い、頭で納得する。けれど、その人にとって、世界がいまだに「人は、数字を出すための戦力だ」と”見えて”いるなら、その新しい知識は、古い見え方の上に、ただ乗っているだけです。
知っていることは、考えれば思い出せます。見えていることは、思い出すまでもなく、ただ そう見える。私たちが普段、ほとんど無意識に世界を捉えている、その捉え方そのもの——それを、ここでは「見え方」と呼びます。変わると大きいのは、知識ではなく、こちらのほうです。
私たちは、ひとつの「水槽」の中にいる
魚は、自分が水の中にいることに、気づきません。水が、あまりに当たり前にそこにあるからです。
私たちの見え方も、これと似ています。「数字で測れるものが大事だ」「成長し続けなければならない」「人は管理しないと動かない」——こうしたものを、私たちは、意見として持っているというより、世界の側に もともとそうある事実として、見ています。水槽の中の水のように、それが「世界そのもの」だと感じている。だから、疑うことすら、思いつかない。
この、自分を取り囲んでいて、けれど自分では気づけない見え方の全体を、ひとつの「水槽」だと考えてみてください。
水槽は、ひとりでは、出られない
やっかいなのは、自分の水槽は、自分では見えない、ということです。中にいるから。
だから、ひとりで どれだけ真剣に考えても、たくさん本を読んでも、たいていは、水槽の中で 考えを巡らせているだけになります。新しい知識も、水槽の中に置かれるので、水槽の水に馴染んでいく。「人を大事に」が「うまく管理する」に変わっていくのは、こうしてです。水槽そのものに気づくには、水槽の外からの、別の見え方が、どうしても要ります。
触れ合いの中で、外の広さを、体で感じる
ここで、対話が効いてきます。
対話で起きるのは、誰かが「あなたは水槽の中にいますよ」と、言葉で教えることではありません。それだと、その指摘もまた、水槽の中の知識になってしまう。そうではなく——水槽の外に立つ別の見え方と、生きたやりとりの中で触れ合うことで、一瞬、水槽の外の広さ(かりに「海」と呼びます)を、体で感じる。「あ、自分は、水槽の中にいたのか」と、頭で理解するより先に、体で分かってしまう瞬間が訪れる。
これは、教わるのではなく、体感することです。だから、情報を渡すだけでは起きないし、本人の中を探るだけでも起きない。外の見え方を持った相手と、その場で触れ合うこと——それが、引き金になります。
「思い出す」と「そうである」の違い
ただ、ここには、二つの段階があります。
ひとつめは、「あ、自分は水槽の中にいたんだ」と、気づける段階。これは大きな一歩です。けれど、まだ もろい。忙しくなったり、状況が変わったりすると、また忘れて、水槽が「世界そのもの」に戻ってしまう。気づいては忘れ、また気づく、を繰り返す段階です。
ふたつめは、見え方そのものが、組み変わってしまった段階。もう、わざわざ「思い出す」必要がない。判断の場面で、新しい見え方が、自然に働いている。「思い出す」のではなく、「そうである」。ここまで来ると、変化は、その場かぎりでは終わらず、状況を越えて、続いていきます。
対話が時間をかけて目指すのは、この、ふたつめのほうです。
だから、対話なのか
まとめます。見え方そのものが組み変わるのは、正しい知識を受け取ったときではなく、外の見え方を持つ相手と、生きて触れ合う中で、何かがほどけたときです。
だから、答えを外から渡すのでも、問いで内から引き出すのでもなく、一緒に、同じものを見る——その関わりが要る。対話という方法を取っているのは、それが好みだからではなく、見え方そのものが変わるには、この道しか、構造的にないからです。
そして、いちど見えるようになったものは、もう、見えなくはなりません。水槽の外を一度知った魚が、水を「ただの当たり前」とは思えなくなるように。だから、この変化は、続いていきます。